162月 いつもの場所で Posted by: tomori Categories: Fukushima tohoku No comments かつて自宅があった場所で遊んで帰る祖父と孫=いわき市久之浜にて いろいろと思うところがあるが、なかなか言葉にならない。 かつて自宅があった場所で遊んで帰る祖父と孫=いわき市久之浜にて 福島県広野町にて 汚染物仮置場。使用済み核燃料同様、これら汚染物の最終処分場もいまだ決まってはいない。 住宅地から2キロも離れていない福島県広野町の汚染廃棄物「仮置場」に除染作業後の枯れ葉や土が運ばれ山積みに。作業手順書では地中に防水シートを敷き、土とシートで覆うことになっている。 汚染物仮置場から漏れる水 土壌減容化実証実験 宅地の近くに この海に生き、この海に眠る。命の鼓動を奏でる=福島県いわき市久之浜の防潮堤にて 本来、莫大な復興予算とは、ここにあった「日常」の回復のために使われるべきではないのだろうか トンガの皇太子からの激励の色紙=福島県いわき市久之浜にある仮設商店街「浜風商店街」にて かつて自宅があった場所を花いいっぱいに。心の拠り所はいつも「ふるさとの家」にある=いわき市久之浜地区にて ふるさとの「海」に向かいて言ふことなし…… 月は変わらず見守り続けてくれる 何年も帰宅困難となると生活の場は嫌がうえでも変わる。「帰る場所」を失っても原発は必要か? 常磐線はいまだに全線回復していない いわき市久之浜地区にて いわき市久之浜地区 そこにあった家に帰る人を待ち続けるように残る家の門 津波により川を遡ってきたテトラポッド(消波ブロック) 福島第一原発から30キロ圏内にある広野町。役場自体がいわき市に機能移転していたため、インフラ上欠かせないものだが、最後に訪れた2012年夏まで復旧していなかった 震災の翌日の3月12日は本来、研修会だった。それをを知らせる張り紙が、そのまま残っていた=2011年9月、広野町で JR東日本常磐線広野駅前にて=2012年7月 住民の9割と役場機能が避難・移転したため休業状態となった新聞販売店。残された住民は、まだ陽の明けきれぬ早朝、国道沿いのコンビニまで毎朝、車で新聞を買いに行ったという。新聞は地元紙を中心に数分で売り切れる状態だったと聞いた。 震災時、常磐線広野駅前に入線前の電車=2011年9月 小学校の校庭の土の表土を削り、入れ替え いわき市久之浜第一小学校 仮設商店街「浜風商店街」。いわき市久之浜地区にて=2011年9月 津波に襲われたあと流出したガソリンやプロパンガスなどの燃料で浸水地域が延焼。焼けただれた郵便ポストにペイントが……=いわき市久之浜地区 津波とともに火災に襲われた街 ボランティアが被災住宅の壁などに花をペイント 被災し仮設の「浜風商店街」で現在は仮営業している「はたや」。コロッケなど総菜が美味しい=いわき市久之浜地区 もうすぐ(2013年2月現在)震災から2年。復興費の用途外流用や除染費ピンハネが発覚し、原発も再稼働させようとしている。政権が変わったといっても、この変わらない現状が国の無策の証だと思う。 いわき市久之浜地区にて=2011年8月 津波で流された街の中に咲く花=いわき市久之浜地区(2011年8月) 流された家にわずかに残った塀の上にあったペンタックス。ずっと家族の成長を見守り続けていたであろうカメラ=いわき市久之浜にて 南相馬市にて=2011年9月 福島の子どもたちを励まそうと有名漫画家有志が、自らの漫画で描くキャラクターを描いてメッセージを寄せた=南相馬市にて 被災地の子どもたちを励ますために著名漫画家有志が直筆の寄せ書きを=南相馬市にて 相馬市にて 出荷制限の中、それでも「作農で畑は生きる」と農家の人は言った=2011年9月、南相馬市 震災後、増えたサイマルラジオ(コミュニティFM)。南相馬の局では、震災後の住民の貴重な情報源となった。震災1周年や原発問題でも特番を組んだりした=2011年9月撮影。インターネットを使ったIPサイマルラジオ「radiko」で視聴できる 2011年9月、南相馬市役所前にて 瓦礫というが、その一つ一つが、それぞれの生活の一部だった=2011年9月、南相馬市にて 2011年、南相馬市にて 田んぼの復興こそ、命の復興と訴える=南相馬市にて 福島交通飯坂線飯坂温泉駅前にて=iPhoneでの撮影 JR常磐線広野駅にて。東日本大震災では、津波で各地で多くの歌碑や文学碑なども流失・損壊している 2011年9月、相馬市にて 共有:共有 関連